由来


生駒神 由来

往馬大社の歴史はたいへん古く、創立年代は定かではありませんが、生駒谷十七郷の氏神としてこの地に鎮座し、奈良県内では大神神社や石上神宮と同様に神奈備(生駒山)を御神体として祀られた日本有数の古社であります。また、神社の境内を覆う鎮守の杜は奈良県の天然記念物に指定されており、太古から変わらぬ自然の森を今に守り伝えています。神社で最も古い記述は『総国風土記』の雄略天皇三年(四五八年)で、この年を御鎮座と致しますと、去る平成二十一年に一千五百五十年を迎えました。また、正倉院文書にも記載が見られ、奈良時代からすでに朝廷との関わりがありました。平安時代の『延喜式』(えんぎしき・九二七年)では、往馬坐伊古麻都比古(いこまにいますいこまつひこ)神社二座が官弊大に列せられ、その内一座は祈雨(あまごい)の弊も賜っていました。この時代、本殿は産土神の二座でありましたが、鎌倉時代に武家の守護神である八幡信仰が興隆し、当社でも五座の八幡神を合せ祀り現在の七座となりました。

現在本殿のご祭神は


伊古麻都比古神 いこまつひこのかみ(産土大神)うぶすなのおおかみ
伊古麻都比賣神 いこまつひめのかみ(産土大神)うぶすなのおおかみ
気長足比賣尊  おきながたらしひめのみこと(神功皇后)じんぐうこうごう
足仲津比古尊  たらしなかつひこのみこと(仲哀天皇)ちゅうあいてんおう
譽田別尊    ほんだわけのみこと(応神天皇)おうじんてんのう
葛城高額姫命  かつらぎたかぬかひめのみこと(神功皇后の母君)
気長宿称王命  おきながすくねおうのみこと(神功皇后の父君)


以上七柱で、この他境内に十三社の摂末社と、境内地に別院春日社四社と高良社(こうらしゃ)二社が祀られています。

鎌倉時代の『生駒曼荼羅』いこままんだら(重要文化財)と室町時代の『生駒曼荼羅』(県指定文化財一四五六年)の二軸八幡神を合せ祀った当時の隆盛を物語っています。境内にはこの曼荼羅に描かれた神功皇后の本地仏である十一面観音像を安置する観音堂があります。仏像は鎌倉末期か室町初期頃のもので、社伝では「雲慶昨」と伝えられています。
また、現在の観音堂付近に古くは経室(きょうしつ)という建物が存在し、そこには『大般若経六百巻』が納められ、神宮寺と伝われる十一の寺が三年づつ輪番で経室を管理していました。
さらに、現在英霊殿が祀られている場所には幕末まで八角の宝壇が設けられ、称徳天皇(七一八年~七七〇年)の黄金の位牌を埋めたところと伝えられています。
往馬大社は古くから「火の神」として崇敬厚く、平安時代の『北山抄』や『亀相記』と言う書物には、天皇の大嘗祭(だいじょうさい)に関わる火きり木を当社より納めた歴史が記されており、昭和や平成の大嘗祭の「斉田點定の儀」(さいでんてんていのぎ)にも御神木の上溝桜(うわみずざくら)が使用されていました。
このような歴史のもとで、毎年十月の体育の日の前日に執り行われる火祭りは、古式豊かな伝統行事として奈良県の無形民俗文化財に指定されています。